「“親子遊び”について」

 みなさんは、 “親子遊び”という言葉を聞いて、どのようなことを思い浮かべられるでしょうか。
文字通り解釈しようとすれば“親子で遊ぶ”ということなのですが、じゃあ親子でどのように遊ぶのでしょうか。
 いきなり「さあ、親子で遊んでください」といわれても、多分ほとんどの人がどうしていいのか分からないと思います。
 「遊び方を知らないんですから無理です」ということなんでしょう。

 実際、お休みの日にテレビの前でゴロゴロしているお父さんに、“たまには子どもと遊んであげてよ”と言うと、“じゃあ、一緒にゲームでもやろうか”とか、“じゃあ、ドライブに行こうか”とか、“買い物にでも行くか”という“遊び方”しかできない、お父さんの話をよく聞きます。
 それに対して、お母さんとしては、“一緒に何かを作る”とか、“一緒にサッカーをやる”とか、“一緒にじゃれ合って遊ぶ”とか、そういうことをお父さんに期待していることが多いようです。それで、私が愚痴を聞くことになります。

 でも、造形なんかやったことのないお父さんにとっては“子どもと一緒に何かを作る”などということは想像もできまません。また、疲れているお父さんはサッカーなどやる気力もないでしょう。“じゃれ合って遊ぶ”などということに至っては、“なんだそれ”という反応しか返ってこないと思います。

 だからといって、お父さんを責めてもどうしようもありません。お父さんというものは昔からそんなもんだからです。私自身、子どもの頃父親に遊んでもらった記憶がほとんどありません。そして、母親と遊んだ記憶はもっとありません。
 今のお母さん、お父さんは昔のお母さん、お父さんとは比べものにならないくらい、子どもとよく遊んでいます。

 じゃあ、私はどうやって遊んでいたかというと、自然の中で仲間と一緒に伝承遊びをしたり、また一人で作ったり、自然の中で遊んでいました。
そして、そのような遊びを通して色々な体験を積み、様々な技術を身につけ、人間関係を学び、危ないこともいっぱいやって自信もつけました。
 簡単に言うと、昔の子どもたちは、そんな遊びを通して、「コミニケーションの方法」や、「トラブルを解決する方法」、そして、生活に必要な様々な技術や知識などを学んでいたのです。
 そして、そのような遊びを通して子どもたちは少しずつ夢の世界から目覚め、現実の世界の中での生き方を身につけていきました。
 子どもたちは仲間との遊びを通して、夢を実現しようとし、その過程で夢は「独りよがりの妄想」から、みんなで共有することが出来る「ファンタジー」へと変化していくのです。なぜなら、「ファンタジー」とは子どもの感覚と思考を通して発見された一つの「哲学」(世界の真理)なんですから。(ファンタジーを“夢の世界”と言い換えることも出来るかも知れません。)
 子どもたちはそのファンタジーを共有することで群れて遊ぶことが出来ました。ファンタジーのない子どもたちは“たむろ”することは出来ても、一緒に遊ぶことが出来ないのです。大勢集まっても、ただゲームの順番を待っていたり、目の前に友達がいるにもかかわらず、みんなが携帯でどこかの誰かと話しをしているというような状況になってしまうのです。
 そして、子どもたちは、そのファンタジーによって、物事を、自然現象を、大人の社会を、そして様々な出来事を理解し、そしてそれが客観的な自我意識の成長と共に自然と構成されなおされて、大人の哲学になっていくのです。

(余談ですが、最初から客観的な知識を与える必要はないのです。自分で考えることが出来る力が身に付いていれば、意識の成長と共に知識は自然と調整されていくのです。むしろ、最初から客観的な知識を与えてしまうことで、子どもが自分で考える力を育てることを邪魔してしまいます。なぜなら、子どもは客観的に考えることが生理的に出来ないからです。もっとも、自分で考えることが出来ない子は教わったままの知識をそのまま持っていることしかできませんけど・・・。)

 昔からの、子どもたちの遊びは夢と現実をつなぎ、子どもの世界と大人の世界をつなぐ働きをしていたのです。

 でも、現代では子どもたちの間からそのような遊びも、仲間も、自然も消えてしまいました。今、子どもたちが夢中になっているテレビやビデオやテレビゲーム、そしておもちゃなどの遊びのほとんどは子どもたちの生活や、自分たちが生きている世界とは無関係のものばかりです。それらは、子どもを子どもの世界(夢の世界)に閉じこめておくだけの働きしかしていません。
 それらは確かに、楽しいかも知れませんが、むしろ楽しいが故に、子どもたちを現実から逃避させる要因にもなってしまっているのです。そして、現実とつながることが出来ない“夢の世界”はやがて“妄想”へと変わっていきます。

 でも、子どもたちはそのままずっと夢の中にいられるわけではありません。やがて、子どもたちは現実の世界に出ていかなければならないのです。
 でも、そのような遊びしか体験してこなかった子どもたちにとって「現実」は、不安と危険に満ちた未知の世界で、自分の無力さを思い知らされるだけの場に過ぎません。
 また、汚いし、リセットもできないし、思い通りにもならなし、退屈で、かったるくて、“面倒くさい世界でしかないのです。そして、それを“妄想”で解釈し、うまくいかないとすぐに自分だけの世界に引きこもってしまうようになってしまいます。
(ノコギリやカッターでちょっと怪我をしただけで、“ぼくノコギリ(カッター)嫌い”と言って手を出さない子どもがいっぱいいます。“できないできない”といって、最初から何にもやろうとしない子もいっぱいいます。ポケモンとゲームのことを話している時だけ元気なんです。)

 そこで私は、そのような世の中の流れにただ流されるばかりでなく、なんとか子どもたちを現実に引き戻すことはできないか。家庭の中で、子どもたちの心とからだを育てることが出来る方法はないか、ということを考えたのです。それが、私が提唱する“親子遊び”です。

 一般的に親子遊びというと、親子の関係作りがその大きな目的になっています。親子が遊びを通して関わり合うことで、お互いのぬくもりを感じ、理解し合うきっかけが生まれます。そしてそのことで、子どもの不安を癒し、心を安定させることが出来ます。親もまた、子どもとの関わり方を学ぶきっかけになり、子育てが少し楽になります。
 そして、楽しい体験を共有することで共通の話題が増え、コミニケーションが活発になることもあります。

 それで、公民館などでは親子遊びのきっかけとして「造形遊び」とか、「からだ遊び」といった遊びを用意して、それを親子一緒に楽しむ場を色々と企画しています。私自身も色々な公民館に呼ばれてこのような“親子遊びの会”の講師をやっています。

 でも、私が「親子遊び研究家」として特に大切にしていることは、“家庭から離れたところで、用意された遊びを遊ぶ”ことではなく、日常の生活そのものを親と子の遊びに転換していくことができるような方法を考え、伝えていくことなんです。
 ファンタジーの世界(子どもの夢の世界)を媒介にして、「子ども」と「生活」と「現実」を「遊び」と「喜び」と「夢」でつなげたいのです。
 と聞くと、なにやら難しそうですが、そんなことありません。ただ、子どもと一緒に、楽しく遊べばいいのです。

  そんなことを言われても、「わざわざ子どもと遊ぶのは大変だ」と思われるかも知れませんが、実際には親子で遊ぶことで子どもといる時間が辛くなくなり、むしろ子育てが楽になるのです。
 そして、子どもと遊ぶことでお母さんは子どものことを知り、子どもはお母さんのことを知ることができます。そして、お互いに信頼関係が生まれ、無駄な不安が消えていきます。

 せっかく一緒に暮らしているのですから、楽しい時間を共有できるように遊びを通して工夫してみませんか。

 今、通信(ポランの広場)で連載でその「子どもとの遊び方」を書いています。まとまりましたら冊子の形にしようと思っています。

<子どもとの遊び方のヒント>